「パンとサーカス、そして」

朝、目を覚ますのがこわい。

夜、眠りに落ちていくのがこわい。

その間の覚醒の時間もまた、おそろしい

宙を浮遊するような、足が地につかない、この浮遊感と空虚感。

ウクライナの子どもたちはどうしている?

来月のはじめに出産と言っていた、おなかの大きなあのひとは?

まだ若い父親の胸にしがみついて、ぽろぽろと、ぽろぽろと大粒の涙を流していた

あの男の子はどうしている?

古いスカーフをかぶり、背を丸めて人道回廊を行く高齢の女性は?

大きな荷物を背おって、よろめきながら歩を進め、時々立ち止まってはまた歩き始める高齢の男性は?

戦争の世紀と呼ばれた20世紀のあとに、わたしたちは

再び戦争の世紀を迎えようとしているのか。

市民は政治に異議申し立てをすることは大それたことなのか。

その声は消されるだけなのか。

パンとサーカス。

ウクライナでは終わりが見えないロシア軍の侵略戦争が行われ、

新型コロナウイルスもまた、いまだ完全におさまったわけではない。

そしてあの日から11年を迎えた宮城、福島を中心に

おおきな地震をわたしたちはまた体験した。

不安で不安定で不穏な日々。

パンとサーカスは、現在のような時代や社会でよく使われる警句のようなものだ。

パンは文字通り食料のこと。サーカスとは災害など市民社会を騒がすもろもろや、娯楽もそこに入る。

およそ十年ほど続いたこの国の政権においても、「パンとサーカス」のたとえは、

政権に批判的なメディアによく登場した。

個人的なことになるが、東日本大震災、福島第一原発の過酷事故直後、

世の中に満ち満ちている「忘れさせていくシステムに要注意」と書いたのも、

そのまま「サーカス」には気を付けろ、という意味だ。

「サーカス」は酸鼻な現実や政治からの目隠しに役立つものであるのだから。

わたしたち一般市民が何かに気づいて立ち上がる前に、その辛さや痛み、憤りを

忘れさせていくシステムは、どの時代にも、どの社会にも準備されている。

権力を持つものは、市民が政治的に「目覚める」よりも、無関心であったほうがはるかにらくだからだ。

それは古代ローマでも、ベトナム戦争の頃でも、イラク戦争下でも、21世紀のいまでも変わりはない

支配する側の論理である。

それゆえの、「パンとサーカス」である。

だからこそ、わたしたち市民は気をつけなければならないのだ。

香ばしい香りのするパンに、きらびやかな娯楽や、あるいは遠くで起きる目を覆うような惨劇にも。

どれもが悲しいことに、「サーカス」になるのではないか、と報道番組を見ながら考える。

どの番組も当然、流すことが許容されたニュースである。



●2022年3月27日(日)「朝の教室」に、新刊 『パンとサーカス』を上梓された
島田雅彦さんをお迎えいたします!

 オンライン(zoom)で視聴いただけます。下記よりチケットをお申込みください。

2022年3月27日(日) 9:00~10:30 (見逃し配信 18:00~)

講演テーマ:『「パンとサーカス」に抗う』

パンとサーカス』 

島田雅彦/著 講談社

落合恵子の『明るい覚悟』

Living at the same time こんな時代だからこそ。