「80歳の詫び状」新年はどのようにお過ごしでしたか?12月31日まで、わたしはクレヨンハウスで仕事をしていた。その大きな仕事のひとつが、詫び状を書くこと。いつもご著書をお送りくださるかたや親しいひとに、12月のはじめに出した新刊をお送りするのがまだ追いついていないまま、新年を迎えそうだった。失くした眼鏡も行方不明。「本、買わないで待ってるからね」そんなメールも届いている。31日。いま送れば、相手かたに届くのは紛れもなく新年。年明けに、小細胞肺がんに罹ったという本を友人から受け取りたいか? それも、いつも元気な友人から。タイトルに「がん」という言葉が入っているが……正直、わたしは抵抗したのだが……、内容、テーマはがんそのものというより、残された日々をいかに生きるか、である。が、タイトルに「がん」があるのは、紛れもない事実で、いろいろと迷いに迷う。死を明らかに意識することは、生きるということをいままでよりもはるかに強く意識することでもある。わたしはそうであるし、多くのひともそうであるだろう。「生きているこの瞬間」を確かに、深く、誠実に「生きる」こと……。それが死を意識することである、とわたしは考える。広告や早くに受けた取材がすでに記事として出はじめているので、問い合わせなどもいろいろあって、年の暮れにフーフーと汗かいて、急ぎの詫び状と格闘しているわたしである。なぜ言ってくれなかったのだ? と勢い込んだ声音と口調で始まる電話もあるが、おおかたは途中で変化する。「だよね、あなたってそういうひとだよね。今日からはちゃんと付き合わせて、あなたのがんとも」「順番が違うよ」「どこが?」「わたしとつきあうことがまず基本。そのわたしが、がんである、ということはその後についてくること。……がんであることはわたしのすべてではなく……」「……わたしの、一部でしかないと書いてあったね」そのあたりで、勢い込んでいた受話器の向こうの口調は、優しいタッチのそれに変わる。気を遣わせてしまって、本当に申し訳ない。31日はいつもより3時間早くにクレヨンハウスは閉店。お客様を見送った。「読みました」と小声(なぜか小声だ、みなさん)で囁くように言ったあと、「私も実は……」とおっしゃるかたも何人かおられた。最後に残ったのが、レストランの31日のお当番の人たち等。「年越し蕎麦、とろうか?」あれこれ探して、残念。19時過ぎの大晦日。蕎麦屋さんが最も込み合う時間だ。「どうする?」迷うわたしの視線が、野菜市場の、ほかでもない日本蕎麦の棚に。出前をとることないでしょうが。うちにあるだろ。出前より早くにとなると、これしかない!これがある!お湯をかけて丼にお皿で蓋をして3分間。インスタント蕎麦ではあるけれど、案外いける「納豆蕎麦」。誰かがお湯をわかし、誰かが丼を人数分ならべ、箸も当然、誰かが準備。刻んだネギも。自分のところで売っていても食べたことのないスタッフもいて、先に帰ったスタッフもとめておけばよかったと後悔しているうちに、うまそうな香りが。こうして、わたしたちは「美味しい」「癖になりそう」と言い合いながら、夢中になって年越し蕎麦をすすった。帰宅してすぐに濃い緑茶を飲んで、この季節におなじみの金時みかんをたべているうちに除夜の鐘が。退院して3度目の除夜の鐘。年が明ければ、能登の地震から2年。そして海の向こうでは……。クレヨンハウスにもわが家にも、松や千両といっしょに今年は蝋梅を飾った。いい香りだ。1月5日。あと5日で、「朝の教室」、クレヨンハウスでの講演である。いつもは講演をしてくださる方々を迎えて、わたしは司会進行役。12月は『TOKYOタクシー』を監督された山田洋次さんのお話だった。3月は小出裕章さん。その間の1月が、わたしの出番で、すみません。なぜ、がんということを黙っていたのか。それらについても話をする。また、がんであると言葉にしてから、変わったこと、感じたことなどもまた。医師と患者の関係性についても、お伝えしたいことは山ほど。1月31日は同じテーマを大阪で。主催はこのところご無沙汰気味だったクレヨンハウス大阪店の皆たち。まずは10日の東京を無事クリアしなければ。退院して最初の新年は、風邪などがこわくて、ずっと家にいた。眼鏡は……、まだ見つからない新年5日目。2026.01.05 05:00
「女性たち」先週の金曜日は一日中、クレヨンハウスに居た。12月5日に新刊『がんと生ききる 楽観にも悲観にも傾かず』(朝日新聞出版)が刊行されてから、取材が絶えることがない。同じようなことばかり話をしているようで、気が引けるのだが、タイトル通り、どちらかに傾くことはないよね?とお伝えすることができたら、こんなに嬉しいことはない。クレヨンハウスの本の売り場からも、日々幾冊売れましたという報告が、日報と一緒に入って来る。野菜市場で「坂出(さかいで)金時」という名のサツマイモを選んでいるとき、隣から手が伸びて、「ぼっちゃん南瓜」を手にしたかたのエコバックから、わたしの『悲観にも楽観にも傾かず』の、きれいな黄色い表紙が見えた。つい「ありがとうございます」とお声をかけてしまう。食事のあと、テーブルでコーヒー飲んでいると、すっと近寄ってこられた高齢(といっても、わたしより若い)女性が、小さな声で、「元気でいてください。お元気そうな顔色でほっとしています。また会いにきます」。小さく手を振って出て行かれる姿を見ていると、「うん、大丈夫だよ、気を付けてね」とこちらもその背に声をかけたくなる。お互い、生ききっていこう!金曜日は、二本の少し長い取材を受けた。どちらも新聞。ふたりとも、とても優れた記者だった。人間的な意味でも、である。珍しいことではある。二回続くと、どちらかが「うーむ」だったり、仕事はできそうだけれど、人間性はちょっと……疑問符付きといった場合も、不幸にしてあったりする。それは先方の問題というより、取材を受ける側が疲れていたりする場合のほうが多い。それが金曜日は、なんとラッキーなことだったか。ひとりは女性記者、もう一人は男性記者で、カメラは両社とも女性だった。わたしがラジオ局に入社して数年たったころ。深夜放送を担当していた、55、6年前。カメラの女性はほとんどいなかった。皆「カメラ <マン>」だった。その後、20代後半で、外部の原稿を書いてもいいという許可を、当時勤務していたラジオ局で手にした。海外取材などにも何度となく一緒に行ったのが、カメラの女性だった。当時は珍しい存在だった。そしていま、新聞社の取材などでは、記者が写真も自分で撮る場合が少なくない。会社にとってはいろいろな意味で便利なのだろう。うちの編集部でもカメラを依頼する場合もあれば、編集者が自分で撮る場合もある。「人」というより、「男」を意味することが多い「MAN」が、性別不問の「PERSON」という呼称に変わったのはいつ頃のことだったか。消防士を意味する「FIREMAN」が、「FIREPERSON」に。 当時、表参道にあったクレヨンハウスの3階、「ミズ・クレヨンハウス」には、フェミニズムの入門編の本がたくさん並んでいた。D・Vや、アダルト・チルドレン等々。わたしは、すでにフェミニズムについて充分に学んだひとたちよりも、「これから」の人と空間を分かちあいたかった。すでに学んだひと、学ぶ場をもっているひとは、自分で進んでいくだろう、仲間を見つけて。大事なのは、いまはまだ入り口に立っていて、中に入ろうかどうしようかと迷っているひと、肩を並べて一緒に歩む仲間もまだいないひと。なぜなら彼女たちこそ、将来の「モノ言う市民、異議申し立てをする個人」になる可能性が、きわめて高いのだから。 女性の大工さんに出遭ったのもその頃のこと。「働く女性と性差別を考える三多摩の会」だったか、ふたりは米国で学んで帰国した女性カーペンターだった。クレヨンハウスの地下にある研修室で、季節ごとにコンサートや、発表会をしていた。彼女たちはその会のメインメンバーで、歌もダンスもうまかった。むろん思想は筋金入りでありながら、文化的感触はやさしかった。 この研修室では、年に一度、国際女性デイ(※)に、その前の年、活躍した女性たちをお招きして、ミモザの花束と食事とお酒のある一時をプレゼントした。思いっきり、今夜はリラックスして、と。 何度目かの女性デイの受賞者のひとりが、当時の社会党の党首 土井たか子さんだった。舞台で土井さんがアカペラで「サン トワ マミー」を朗々と歌い上げていた時、ドアを開けた男性が、「ど・い・た・か・こ がうたっている! ほんとか??」と叫んだこともあった。そしていま、フェミニズムは?大きな総合病院。女性医師の数は以前よりは増えているかもしれないが、役職となると……。役職がすべてではないのだが。そうして、政治の世界では?------------------------------------※「国際女性デイ」について1904年3月8日にアメリカ合衆国、ニューヨークで婦人参政権を求めて行われたデモが起源となり、1910年のコペンハーゲンでの国際社会主義会議で「女性の政治的自由と平等のために戦う日」と提唱されたのが始まり。国連はその後1975年の国際婦人年に、3月8日を「国際女性デイ (International Women'sDay)」と制定。世界各地で、それぞれの国の歴史と伝統に応じて呼びかけがされています。イタリアでは「FESTA DELLA DONNA (フェスタ・デラ・ドンナ=女性の日)」とされ、母親や妻、同僚などに愛や幸福の象徴でもあるミモザの花を贈ります。-----------------------------------2025.12.23 02:15
「50年」この12月5日、クレヨンハウスは創立(なんだかエラソー。ま、オープンして)50年目を迎えた。吉祥寺で迎える4回目のクリスマス。 50年。よく続いたよなあ、と苦笑するわたしがいる。苦笑の内訳はさまざまだが、わたしもよくやったと、ちょっと褒めてやりたい。そして、スタッフもまた。 学校を卒業して22歳から放送局に勤務していた若い女。仕事は面白かったが、局のなれなれしい空気にどうしても馴染めずに、仕事の終わりに通っていたのが銀座の洋書店。そのうち、どうしても自分でもやりたくなった。 絵本や詩集、童話などの専門書店だ。本は1冊売れて、2割(も無い)業界だ。続けられた理由はやはり好きだから。好きだから、をなくしたら、どの仕事もやる理由はない。 50年目を迎えたちょうどその日、新刊の『がんと生ききる 悲観にも楽観にも傾かず』(朝日新聞出版)が書店に並んだ。 「この本だけは、クレヨンハウスで買わなくては」。遠くから来てくださった、あなた。ありがとう! 「今、買ってきましたよー」。声をかけてくださったあなた。 1階で、この本の取材を受けていたわたしに、声をかけてくれたひと。 「ちょっとショックでーす」。そんな声もあった。 理由は植物のきれいな表紙を開いて、見開きに並んだわたしのモノクローム写真。 1枚は、3年前のちょうど今頃の写真。がんの治療の結果、すっかり脱毛したわたしのそれだ。その隣のもう1枚は、今年2025年の秋のわたし、これもモノクローム写真。 脱毛したそれは自撮りしたもので、敢えて載せよう、と主張したのはわたし自身だった。 「髪なんて、また生えてくるさ」、と読者、とくに抗がん剤などの治療で、髪を失った人たちに伝えたかった。ごっそりと髪が抜けたことを悲しみ、苦しむひとへの、写真は、わたしからのメッセージだ。 本の中でも触れているが、目覚めた朝、ピローケースやシーツの上にごっそりと抜け落ちた髪を見つける。シャワーを浴びたとき、排水溝にたまった髪の束を拾い集めて捨てるのも、正直、あまり気持ちのいいものではなかった。が、何より気になったのは、脱毛をおそれる同じ病棟の女性たちの嘆きの声だった。 年代によっては感じ方は違うかもしれない。気持ちはわかるけれど、髪は生えてくるんだ、と伝えたくて……。 まるで使用前と使用後のように、2枚の写真を並べたのだった。それが、見開きの2枚の写真である。個人的には、本文など読まなくても、この写真を見比べてくれたら、それで充分とさえ思っている。 先日も、講演で訪れたある町。 講演後、周囲に誰もいないことを確めてから、小声で「わたしもがんなんです」と言ったそれぞれの女性たち。セルフヘルプのグループが何組もできるほどの人数がそこに居ながら、不安を分かち合うことなく、苦悩を独り抱える女性たち。脱毛したわたしの写真は、そんな彼女たち(彼もいるだろうが)への、大丈夫、髪は必ず生えてくる! というわたしからのメッセージだ。 この50年の間、差別や虐待や性暴力にあった被害者に向けて「IT'S NOT YOUR FAULT」(あなたが悪いわけではない)と言ってきた、80歳になったわたしからのメッセージが、いま、ここに! 自撮りなんてはじめてやった。言葉で説明するよりも、わかり易いだろう、と考えて。 Don't worry! Your hair grows back!2025.12.06 06:14
「25年のクリスマス」 町はすでにクリスマス色。赤や緑や金や銀。イルミネーションも点滅している。 おとうさんに抱っこされた男の子が「マブチイ」と目を細めて、小さな手を結んだり開いたりしている。 イルミネーションの点滅を自分の手で、指先で真似ているのだ。 クレヨンハウスのクリスマスの準備もおおかた完成。というよりも、気になるところはまだまだあるが、「まっ、いっか」まで、一応は辿り着けた。 「美化委員」が中心となって実行してくれた。思いついて持参したわたしの帽子なども総動員しての、ディスプレイ。 「美化委員」とは、美化のために目を光らせてくれるひとたち。毎年、担当は変わるが、みんな優しく、役目を楽しんでくれている(か?)。 夜になって寒い風が吹く屋外でも頑張ってくれている。わたしの出番は、取りかかる前と、およその折り返し地点と、そしてゴールのあと。ちょっとだけ直したいところを言葉にする係。 子どもの目の高さに尖って危ないデコレーションはないか。落ちて誰かの頭にぶつかりそうなものはないか等々。 毎年オーナメントを少しずつ買い足していくのが楽しみだった。そしていまここに、およそ49年分のクリスマスオーナメントが。不思議なもので、どこで求めたのかしっかりと覚えている。 掌に乗ってしまうガラスの細工たち、ブリキの玩具等。ひとつひとつに記憶がある。表参道から吉祥寺に引っ越す際、古くなりすぎて処分したものもあったが、どうしても処分できないものもあった。それらはダンボールに詰め込んで引っ越しさせた。 吉祥寺で迎えた最初のクリスマスが、2022年の12月。23、24年と重ねて、そして今年のクリスマス。 ここはちょっと手を加えたいな、とか、これは色彩が重すぎるとか。気兼ねしつつも、ごめん、美化委員の活動に、少し口をはさむ。 数日前から、小さなベルたちや松ぼっくりの一団が行方不明であることに気が付いた。すでに飾ってあるものもあるが、ほかにもあったはず。こういう場合だけ、わたしの記憶力は元気になる。で、数日間探し回って……。あ、あった。お正月用の飾りに紛れこんでいたのだ。それら小さなベルなどを室内外の枝につけたりしているうちに、瞬く間に、1日が終わった。 私のお気に入りのオーナメントはドイツ製の木の直径5-6センチほどのもので、小さな丸い額の中を、煙を吐きながら行く汽車。鹿の親子が草をはむ姿など、自然な木の色と感触がとてもいい。いずれもクレヨンハウスで買ったものだが、白木から飴色に変色して、それはそれで素敵だ。 がんだと宣告された(宣告とは、大げさだ)、そう、がんと診断された年、23年のクリスマス。そして去年24年のクリスマスは、感染症などによって白血球の数値が変化するのがこわくて(医師にそう注意されていた)、家で過ごす時間を以前より増やした。 何よりも、この12月初頭に刊行される新刊『がんと生ききる……悲観にも楽観にも傾かず』(朝日新聞出版)の書き下ろしに日々追われていた。 書くのは早いほうだと思っていたが、今回はそうではなかった。わたしは当然、わたしのケースについてしか書けないが、わたしにとって結果的に意味ある対処法だったり有効な治療法も、他の人にはそうとは限らない。が、人は心理的に追い詰められると、自分にとって都合がいいように解釈しがちだ。わたしもそうだった。つまりどなたかにとって良かった(と思える)医療が、自分にとってもいいのではと実行する場合がないとは言えない。 がんは、ひとそれぞれ違う。効果ある(らしい、と思える)治療もまた、人それぞれだ。 特に医療に関してのそれは、何度も何度も書き直してはみたが、一つの言葉の選択に迷いだすと、先にすすむことができないまま数日、場合によって数週間が過ぎていった。 その上、そんな時に限って、肩の凝りが酷かったり。「再発か?」。迷いだすと、ここでもまた先に進めない。その間隙を縫っての、当然の督促。何のために、こんなことを書いているのか? 担当の女性編集者とわたしの互いの苛立ちが、電話やメールの言葉を通してびんびん伝わり合った。何のために、わたしはこうしているのか。何が目的なのか。社会にあるすべての力学に対して、疑問を呈し、ささやかながら反対と言ってきたひとりとして、たとえそれが患者の妄想や勝手と言われても、医療の中に潜在する力学をそのまま受け入れることはやはりできない。 患者はときに悲しいほど卑屈になったり、反対に傲慢にもなる。そんな自分をも持て余した日々。 吉祥寺での、今年は3回目のクリスマス。漸く脱稿して、気持ちも落ち着いた。 患者は患者であることだけでもハードあるのに、背負うものが多すぎないか? いや、医療の現場にいるひともまた。 ところで、来年の今頃、クリスマスシーズンに、わたしは今年のように、ツリーにオーナメントを飾っているだろうか。 母がいたクリスマス。昼夜逆転した母と朝がた、ふたりでリビングルームでツリーにオーナメントを次々に飾った。金や銀のボールも。 あの頃、母はたしか車椅子を使っていた。指先が拘縮して、オーナメントを枝先に吊るすのに、長い時間がかかった。 母が落とした木製の小さな楽器をかたどったオーナメントを追いかけて、テーブルの下にもぐった娘を見て、母が声をあげて笑った夜明けだった。 母を笑わせたくて、もう一度笑い声を聞きたくて、わたしは何度もボールを落として、テーブルの下にもぐりこんだものだった。 同じクリスマスは、ひとつもない、のだ。 2025.11.26 12:57
それは、些細な変化から始まった ついこの間まで、暑い、暑いと汗を拭っていたのが、急にコートを引っ張り出して羽織ってみたり。 12月初めに上掲のタイトルの新刊にも書いたことだったが、がんと診断される前、どちらかというと暑がりだったわたしが、なぜか急に(と思えた)寒がりになった時期があった。23年に、がんだと診断される、たぶん数年前のことだと思う。 その頃から、あるいは、それよりずっと前から、わたしの身体の内部では、いままでのわたしとは違う変化が生じていたのかもしれない。そして、生まれた変化は、長い時間をかけて(10年単位、もっとの場合もあるようだ)、殖えていたのかもしれない。がん細胞が。 確か同じ頃だったと記憶する。帯状疱疹にかかった。 首筋を中心に寒くて寒くて仕方がないこと。そして帯状疱疹は、それぞれ独立した症状であり、感覚だと当時な思っていた。そうだったかもしれないし、そうなかったかもしれない。いまとなっては、それを調べて証明することはできないのだから。 しかし、それらの変化はひと続きのものであったような気がする。どちらも初めての体験であり、体感であった。 いつもと違う何かが自分の内側にでも外側にでも生じたら、自らの健康状態をちょっと疑ってみる必要があったのだ。わたしは大きなこととは考えずに、通過してしまった。 もっとも相談した医師がセンシティブでも、意欲的でもない場合もあって、患者からしたら、困惑させられる場合もあるが。 そう。どんな医師に出遭うかで、その後の人生が大きく変わることは、今は亡き柳原和子さんの『がん患者学』でも、よくわかる。友人知己ががんにかかる場合が多く、こういった、がんをテーマとした本は、当時もよく読んでいた。並行して、オーガニックの野菜や根菜、果物などの本もまた。わたしは有機の八百屋でもある。 YOU ARE WHAT YOU EAT.あなたの身体はあなたが食べたものでできている。 YOU ARE WHAT YOU READ.あなたの心(精神)は、あなたが読んだものでできている、のだ。 READ の本屋とEATの八百屋。その方法を同時にやっていた偶然が、わたしにもたらしてくれたものは……。 大方のわたしたちは、寒気にしても、帯状疱疹にしても、わたしがそうであったように、それらの小さな変化を一過性のものとして通過してしまいがちだ。処方された薬や、首筋に巻く薄手のスカーフや、馴染んだタートルネックのセーターで、なんとかやり過ごしながらきてしまった。 このあたりのことは『がんと生ききる……悲観にも楽観にも傾かず』に詳しく書いた。 あの悪寒に似た寒気は、もう出会うことはない。帯状疱疹にも。やはり異変を知らせる何かであったかもしれない。 日差しが明るく、眩しい日だと、「晩秋」と呼びたくなり、一方、光が乏しい曇り空の日だと、晩秋よりも初冬と呼称がふさわしく感じる。今日の東京は晩秋。 がん病棟の患者さんたち、とくに滞在期間の長いひとたちが、ひそかに「リゾート」と呼んでいたあの空間、病院の長い廊下や談話室。 調理した料理をのせる配膳台の音が突然といった感じで甦る。2025.11.21 12:20