「25年のクリスマス」

 町はすでにクリスマス色。赤や緑や金や銀。イルミネーションも点滅している。
 おとうさんに抱っこされた男の子が「マブチイ」と目を細めて、小さな手を結んだり開いたりしている。
 イルミネーションの点滅を自分の手で、指先で真似ているのだ。
 クレヨンハウスのクリスマスの準備もおおかた完成。というよりも、気になるところはまだまだあるが、
「まっ、いっか」まで、一応は辿り着けた。
 「美化委員」が中心となって実行してくれた。思いついて持参したわたしの帽子なども総動員しての、ディスプレイ。
 「美化委員」とは、美化のために目を光らせてくれるひとたち。毎年、担当は変わるが、みんな優しく、役目を楽しんでくれている(か?)。
 夜になって寒い風が吹く屋外でも頑張ってくれている。わたしの出番は、取りかかる前と、およその折り返し地点と、そしてゴールのあと。ちょっとだけ直したいところを言葉にする係。
 子どもの目の高さに尖って危ないデコレーションはないか。落ちて誰かの頭にぶつかりそうなものはないか等々。
 毎年オーナメントを少しずつ買い足していくのが楽しみだった。そしていまここに、およそ49年分のクリスマスオーナメントが。不思議なもので、どこで求めたのかしっかりと覚えている。
  掌に乗ってしまうガラスの細工たち、ブリキの玩具等。ひとつひとつに記憶がある。表参道から吉祥寺に引っ越す際、古くなりすぎて処分したものもあったが、どうしても処分できないものもあった。それらはダンボールに詰め込んで引っ越しさせた。

  吉祥寺で迎えた最初のクリスマスが、2022年の12月。23、24年と重ねて、そして今年のクリスマス。
 ここはちょっと手を加えたいな、とか、これは色彩が重すぎるとか。気兼ねしつつも、ごめん、美化委員の活動に、少し口をはさむ。
 数日前から、小さなベルたちや松ぼっくりの一団が行方不明であることに気が付いた。すでに飾ってあるものもあるが、ほかにもあったはず。こういう場合だけ、わたしの記憶力は元気になる。で、数日間探し回って……。あ、あった。お正月用の飾りに紛れこんでいたのだ。それら小さなベルなどを室内外の枝につけたりしているうちに、瞬く間に、1日が終わった。
 私のお気に入りのオーナメントはドイツ製の木の直径5-6センチほどのもので、小さな丸い額の中を、煙を吐きながら行く汽車。鹿の親子が草をはむ姿など、自然な木の色と感触がとてもいい。いずれもクレヨンハウスで買ったものだが、白木から飴色に変色して、それはそれで素敵だ。

  がんだと宣告された(宣告とは、大げさだ)、そう、がんと診断された年、23年のクリスマス。そして去年24年のクリスマスは、感染症などによって白血球の数値が変化するのがこわくて(医師にそう注意されていた)、家で過ごす時間を以前より増やした。
  何よりも、この12月初頭に刊行される新刊『がんと生ききる……悲観にも楽観にも傾かず』(朝日新聞出版)の書き下ろしに日々追われていた。
 書くのは早いほうだと思っていたが、今回はそうではなかった。わたしは当然、わたしのケースについてしか書けないが、わたしにとって結果的に意味ある対処法だったり有効な治療法も、他の人にはそうとは限らない。が、人は心理的に追い詰められると、自分にとって都合がいいように解釈しがちだ。わたしもそうだった。つまりどなたかにとって良かった(と思える)医療が、自分にとってもいいのではと実行する場合がないとは言えない。
 がんは、ひとそれぞれ違う。効果ある(らしい、と思える)治療もまた、人それぞれだ。
 特に医療に関してのそれは、何度も何度も書き直してはみたが、一つの言葉の選択に迷いだすと、先にすすむことができないまま数日、場合によって数週間が過ぎていった。
 その上、そんな時に限って、肩の凝りが酷かったり。「再発か?」。迷いだすと、ここでもまた先に進めない。その間隙を縫っての、当然の督促。何のために、こんなことを書いているのか?
  担当の女性編集者とわたしの互いの苛立ちが、電話やメールの言葉を通してびんびん伝わり合った。何のために、わたしはこうしているのか。何が目的なのか。社会にあるすべての力学に対して、疑問を呈し、ささやかながら反対と言ってきたひとりとして、たとえそれが患者の妄想や勝手と言われても、医療の中に潜在する力学をそのまま受け入れることはやはりできない。
  患者はときに悲しいほど卑屈になったり、反対に傲慢にもなる。そんな自分をも持て余した日々。
  吉祥寺での、今年は3回目のクリスマス。漸く脱稿して、気持ちも落ち着いた。
  患者は患者であることだけでもハードあるのに、背負うものが多すぎないか? いや、医療の現場にいるひともまた。

  ところで、来年の今頃、クリスマスシーズンに、わたしは今年のように、ツリーにオーナメントを飾っているだろうか。
  母がいたクリスマス。昼夜逆転した母と朝がた、ふたりでリビングルームでツリーにオーナメントを次々に飾った。金や銀のボールも。
 あの頃、母はたしか車椅子を使っていた。指先が拘縮して、オーナメントを枝先に吊るすのに、長い時間がかかった。
 母が落とした木製の小さな楽器をかたどったオーナメントを追いかけて、テーブルの下にもぐった娘を見て、母が声をあげて笑った夜明けだった。
 母を笑わせたくて、もう一度笑い声を聞きたくて、わたしは何度もボールを落として、テーブルの下にもぐりこんだものだった。
 同じクリスマスは、ひとつもない、のだ。 

落合恵子blog Keiko Ochiai

落合恵子のブログ『明るい覚悟』